「心の未病」を癒す「身体ケア」のススメ
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こんにちは、ミサキです。
「心と身体は繋がっている」。
最近、よく耳にするこのフレーズ。
前回の記事にも書きましたが、これ、多くの人が都合のいい時しか信じません。
ストレスで胃が痛くなるのはわかるのに、気合が足りないからだと自分を責めて、余計ストレスをかけてることに、どうして気づかないのか?
たっぷりと睡眠をとれば、翌日心まで晴々とするのは知ってるのに、どうして落ち込んだ気持ちを性格のせいにして、深夜まで悩み続けるのか?
心と身体は繋がっているどころではなく、そもそも分離不可能なもの。
心も身体も、同じ「私」です。
ところが、西洋哲学の影響からなのか、「身体」はまるで「心の容れ物」のように扱われがちです。
身体の不調を精神力で乗り切ろうとするのは、まさに「心によって身体は御することが出来る」という考えからでしょう。
実際「気合」である程度までは身体の苦痛を隠しながら振る舞うことは出来ます。
例えば、大事なイベントなどが終わった途端にホッとして疲れが一気に出るようなこと、ありますよね?
これは一種の気合で、身体に疲労を感じさせないように緊張状態にしているからです。
したがって、それが終わると緊張が解け、本来の疲れを感じるようになるのです。
ただ、これがイベントなどの一時的なものではなく、慢性化しているとしたら・・・?
本当は休むことやケアが必要な状態であっても、自分すらそれに気づかずに動き続けることは多いのです。
でも、それは長くは続きません。
長く緊張状態に置かれたままの身体。
そのまま身体の声を無視し続けると、どうなるか?
答えは明らかです。
身体が反乱を起こして、無視できない病気になってしまったり。
制御しきれなくなった身体に、心が悲鳴をあげて鬱状態になってしまったり。
心の緊張の糸が切れて、燃え尽き症候群のようになってしまったり。
そうなってから気づくのは、リカバリーにかなりの時間がかかってしまいます。
そうなる前の、「心の未病」状態を癒すことが大切です。
「心の未病」は、自覚症状がない
ただ、多くの人は「心の未病」に無自覚です。
自分がその状態にあることは、ほとんど気付いていません。
例えば、こんなことはありませんか?
普段は問題なく周囲と人間関係を築けている。
なのに、家族や恋人、チームで仕事をする同僚など、近くて密な人間関係で、たまにどうしようもないトラブルになってしまう。
しかも、毎回同じようなパターンで。
「どうして私のこと、わかってくれないの!?」
「自分の事ばっかり言うな!」
例えば、こんな風に。
私は、まさにこうでした。
我慢して我慢して耐えられなくなって、今まで溜めていた不満をぶちまける。
すると相手は驚いてしまう。
なぜなら、相手は私をつらくさせている自覚など全くないからです。
というより、そもそも何もしていない。
私が勝手に不満を募らせ、そのことを相手に伝えもせず、相手の態度から悪い憶測をし、自らの首を絞めているだけ。
それなのに、急に「私をこんなに苦しめた加害者呼ばわり」なのです。
当然驚くし、怒ります。
これこそ、「心の未病」状態です。
心が冷静さを失い、普通の交友関係では考えられるバランスが、近い関係だとわからなくなってしまうのです。
後から思い返せば、どうしてそんなに取り乱したのかわからなかったり。
もっと早くから、思った事を伝えればよかっただけなのに。
私は、いつもこうだ。
こうやって、人間関係をこじらせてしまう。
でも、それが私。
この性格は変わらない。
こうやって生きていくしかない。
そうやって、ずっと諦めて。
そうやって、また何も癒せず、自分を責めながら、日常に戻る。
どこか、寂しい気持ちを抱えたまま。
誰とも、心の底から繋がれないまま。
でも、そうではありません。
こうなってしまうのは、心が病になりかけているから。
心の悲鳴を聞いてあげないから、矛先が他者に向いてしまった結果なのです。
近しい人にだけトラブルが起きるのは、「この人なら気付いてくれるかもしれない」という必死のサインなのです。
どんな原因でも「心の未病」は治せる
原因は、いろいろあります。
私の場合はアダルトチルドレン(AC)でしたが、幼少時のトラウマや大きな挫折体験など、人によって理由は様々です。
でも、どんな原因でも治せる方法があります。
それは、「身体をケアすること」です。
無理して頑張ってきた心。
それは身体の緊張に現れます。
「心の未病」を抱えていると、身体のこわばりとなって蓄積していきます。
飲み込んだ言葉、溜め込んだ感情は「コリ」になるのです。
ならば、この「コリ」をほぐしていけばいいのです。
温め、揉み解し、ゆるめ、伸ばし、身体のしなやかさを取り戻していくと、やがて心に変化が現れます。
ケアを始めてわかる、身体のこわばり。
こんなにも固まっていたのかと、情けなく思ったり。
動かない身体に悲しくなったり。
ほぐしながら、溜め込んでいた感情が流れ出して、涙が止まらなくなったり。
もう少しコリがほぐれてくると、なにか憑物が取れたような、さっぱりとした気持ちになります。
少し前向きな自分が現れます。
時には揺り戻しで、またつらくなることもあります。
溢れ出す感情が、悲しみではなく、怒りに変化することも。
でも、それでいいのです。
行きつ戻りつを繰り返しながらも、心身は癒されていくのです。
この頃になると、同じようなパターンでトラブルが起きても、早めに対処したりできるようになります。
こうして、未病からニュートラルに戻っていくのです。
どんな原因で未病になっていても、このプロセスは変わりません。
身体ケアで、心の未病は治せるのです。
身体の声を聞く「グループケアセッション」
前回の記事でご紹介した、「グループケアセッション」。
自分のどこがこわばっているのか、どうやってほぐせばいいのかを知る、貴重なチャンスです。
パーソナルトレーナーによるストレッチ指導をじっくり受けられる機会は、これからセルフケアをしていきたい人にはピッタリです。
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入浴から始める「身体ケア」
ストレッチなどでほぐすのがどうしても難しい場合。
まずは入浴というのは手軽な方法です。
ついついシャワーで済ませたり、短時間しか湯船につからない人も多いかと思います。
それを半身浴で最低20分以上にしてみてください。
お湯の温度は、のぼせないように少しぬるめにしましょう。
湯船の中で、マッサージをするのもオススメです。
身体をゆっくり温めれば、コリは徐々にほぐれます。
疲れも取れて、よく眠れるようにもなります。
入浴も立派な「身体ケア」なのです。
まとめ
「身体ケア」=「心ケア」。
繰り返しこのブログでも取り上げてきたテーマです。
自分の性格を呪って、いつも孤独感を感じてきた私。
そこから変わる一歩を踏み出せたのは、身体ケアのおかげです。
どうかこのことに、一人でも多くの人が気付く事を願ってます。
身体ケア=心ケア〜パーソナルトレーナーによるグループケアセッションのお知らせ
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こんにちは、ミサキです。
突然ですが、正しいストレッチの仕方って、皆さんご存知ですか?
昨日ネットを検索していて、こんな記事を見つけました。
首のこりは全身の不調を出現させます。
首の後ろには自律神経の副交感神経センターと私が名付けた特別の部位があるからです。
つまり、この部位の異常は副交感神経の働きに変調をもたらす。
これにより、実に多くの重大な病気につながることも少なくありません。
首のこりから発症する病気のなかでも、最も怖いのがうつ症状でしょう。
ああ、やっぱりね。
医学的にもちゃんと根拠はあったのです。
それなのに、意外と身体のことって、後回しになるのはどうしてでしょう?
心と身体は、イコールといってもいい
以前も記事に書きましたが、「心と身体は繋がってる」というフレーズ、すでに目新しくもないですが、なぜか多くの人が都合のいい時しかこの言葉を信じません。
例えば、
ストレスによる肌荒れは認めるのに、身体の疲れがあっても気合いで乗り切ろうとする。
食生活の乱れによる集中力低下は信じないのに、集中したい時に栄養ドリンクを飲む。
おかしくないですか?
心と身体はほとんどイコールです。
先ほどの記事にもあった通り、例えば首が凝っていれば、気持ちは理由もなく沈んでいきます。
いつも何かをガマンしていたら、身体は縮こまってしまいます。
緊張すると、無意識に肩や腕に力が入りますよね?
そういうことが、身体中に起こっているのです。
心の不調のスパイラルから抜ける方法
心の不調を感じたとき、心療内科やカウンセリングを受けることをイメージする方も多いでしょう。
もちろん、プロの手によって心のメンテナンスをするのは重要です。
でも、「そこまでじゃないけど、どうしても落ち込んでしまうことがある」という場合はどうするか?
これは、まさに私自身がそうでした。
病院に行くほどでもない、でも、ものすごく精神的につらい
自分の持つ「自己肯定感の低さ」「無価値感」といったものにずっと苛まれてきた私。
何かのきっかけでソレが暴走し始めると、落ち込むなんていう言葉では済みません。
客観的にみれば大したことない出来事がきっかけで、一人号泣することもしばしば。
どんな時も自分が許せなくて、自分が大嫌いになって、消えてなくなりたいと何度思ったか。
でも、感情の嵐が過ぎると、数日で落ち着きを取り戻します。
ただ、こうなっている時に他者を巻き込んでいる場合、人間関係に不調和を起こしてしまいます。
そんな事になるたびに「世の中は、生きづらい」と悲観ばかりしてきました。
それらは全て、自分の性格のせい。
こうやって生きるしかない。
ずっと、そう思ってきました。
でも、このループは、抜け出すことができる。
それに気づかせてくれたのが、身体を整えるパーソナルトレーニングでした。
心を整える、身体ケア
パーソナルトレーニングを受けて、私がどう変わったか。
いくつか過去記事にも纏めています。
misakinha.hatenablog.com
結論から言えば、心を整えるには身体をケアした方が早いのです。
身体をケアし始めると、今まで気づかなかった部分の不調を感じたり、本当はツライと思っていたことを自覚して悲しくなったり、とにかく色々なものが噴き出してきます。
この現象、好転反応とか揺り戻しとか、色々な言い方がありますが、つら過ぎて見ないように、感じないようにしていた諸々に、心身が気付き始めた状態です。
ここまで来たら、心のケアやトレーニングを始められます。
蓋をしていた感情を解き放ってからの方が、心のケアもしやすいからです。
(ただし、本当に鬱などを発症している場合はこの限りではありません。あくまで、病院に行くほどではないんだけど…という場合に限ります)
でも、実際身体のケアってどうやればいいの?
縮こまった身体やコリをほぐすには、ストレッチやマッサージが何より有効です。
でも、正しいストレッチの仕方って、よくわからないですよね?
どこを、どうやって、どのくらいやればいいのか?
意外とちゃんと教わる機会はありません。
自己流でやると、痛めてしまうこともあります。
まず一度、プロに教えてもらうのが近道なのです。
身体ケア、気軽に体験できるイベントを企画しました!
前回もブログで告知しましたが、パーソナルトレーナーによるグループケアのイベントを企画しました。
いきなりパーソナルを受けるのは、なかなか敷居が高いと思うのですが、グループでしかもお手頃な料金設定なので、体験としてはオススメです。
来ているメンバーは、普段から体を動かしてる方もいれば、全く運動習慣がない方まで色々です。
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ドラマ「嫌われる勇気」第一話から読み解く~アドラー心理学のキモ(一部ネタばれあり)
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こんにちは、ミサキです。
昨日からドラマ「嫌われる勇気」が始まりました。
アドラー心理学のベストセラー本、まさかの刑事ドラマ化です。
- 作者: 岸見一郎,古賀史健
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最近、私も注目しているアドラー心理学。
いくつか記事にも纏めました。
misakinha.hatenablog.com
misakinha.hatenablog.com
ドラマを見て、「あー、これは本読まないと真意が伝わらないかもな…」という箇所や、もうちょっと突っ込んだ解説があってもいいかな?という部分があったので、ネタバレ込みで書いてみようと思います。
空気を読まないのは、なぜ?
まず、冒頭。
ケーキを求めて並ぶ行列。
どうやらショートケーキが人気らしい。
残り一つになるショートケーキ。
列の後方に並ぶ小さな女の子が、ショーケースに張り付いて「私のショートケーキ!」と叫んでいる。
少女のために、列の前方のお客が次々と違うケーキを買っていく。
そんな中、主人公・蘭子(香里奈)の番になる。
蘭子はショートケーキを買い、周囲から冷ややかに見られる…。
このエピソード。
蘭子が単に「空気を読まない、嫌な女」ということを印象づけるシーン。
これはアドラー心理学の「課題の分離」について言いたいのでしょう。
この後のシーンに出てきますが、青山(加藤シゲアキ)が蘭子をどう呼んだらいいか訊いた時、
「それは私の課題ではありません」
というのに繋がるのです。
アドラー心理学「課題の分離」
自分の課題と他者の課題を分離する考え方。
見分け方は、その選択の結果を最終的に引き受けるのは誰か?を考えること。
例えば、「嫌われる勇気」では〝勉強しない子供〟の例が出てきます。
勉強することは子供の課題です。そこに対して親が「勉強しなさい」と命じるのは、他者の課題に対して、いわば土足で踏み込むような行為です。
(中略)
われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。
これを踏まえて、冒頭のシーンを読み解くと。
蘭子は自分が欲しかったショートケーキを買っただけ。
順番で買ってもらえずに不満を感じるのは少女の課題であり、蘭子には関係ないのです。
さらに、青山が蘭子をどう呼ぶか?については、
「呼ぶのは青山なので、どう呼ぶか決めるのは青山の課題」
ということになります。
あなたの不幸は、あなた自身が「選んだ」もの
コンブ茶教室の生徒・美里と蘭子が話すシーン。
実は教室の集まりの、独特の女子会的雰囲気が苦手だと話す美里。
ただ、夫の転勤で慣れない土地に来ている美里は、友達がいない。
そんな美里に、蘭子はこう言い放つ。
「日常生活に不満があっても、このままの方が楽で安心だ。そう思ってるんです」
「あなたの不幸は、あなた自身が選んだものです」
これはその通りなのですが、もう少し詳しく解説すると、「ライフスタイル」という考え方の話です。
アドラーの言う「ライフスタイル」
人生における、思考や行動の傾向。
性格から世界観、人生観まで含めた言葉。
「ライフスタイル」は自ら選びとったものであり、それはいつでも再選択できる。
つまり、変えられないと思っている性格も、実は何らかの理由で「そうあること」を選んでいる。
不平を言いながらも現状を変えないのは、変えない方が都合がいいからというわけです。
美里の場合、不慣れな土地で孤独感を味わうより、自分が少し我慢しても居場所がある方がいい。
どこかでそう思ってるからこそ、苦手な女子会から抜けることができないのです。
ドラマのクライマックスで、美里はこのライフスタイルを捨てる行動に出ます。
蘭子の「勇気づけ」によって、一人の人間が変わるための一歩を踏み出したのです。
第1回の最大の見せ場はココだと思います。
次回は「目的論」について
次回予告の中で「目的論」というテロップが出てきました。
アドラーの「目的論」、予習しておきましょう。
アドラーの「目的論」
人は何かしらの目的に沿って生きているという考え方。
例えば引きこもりの青年の場合、部屋から出ないことで親からの心配を一身に集めることができる。
しかも、外に出ることによって劣等感を感じる危険性も回避することができる。
これらの目的のために、引きこもりの症状がいつまでも改善しないようにしている。(無意識も含む)
これは先ほどの「ライフスタイル」の選択にも繋がる話です。
自らが気付かない、無意識の目的。
これを突き付けてくる「目的論」は、アドラー心理学の中でも厳しさを感じる側面です。
でも、これは「自分を変えたい」と思う人にとっては、必ずクリアすべき課題。
次回、これがどんな物語に落とし込まれていくか、注目したいと思います!
「目標」は設定するな?達成感の罠から抜ける、アドラー実践法
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こんにちは、ミサキです。
昨日は主宰するグループケアセッションでした。
(ケアセッションについては、こちらの記事をご覧下さい)
misakinha.hatenablog.com
事前に腰痛がある旨はトレーナーにお話ししており、二時間のセッションで身体をよくほぐしたはずが…
腰痛、むしろ悪化。
帰宅後、気になったのでトレーナーにメールして、指示通りお尻をボールでほぐすと…
痛い!
これが元凶の可能性があるようでした。
痛いけどほぐれないから、更に圧をかける。
すごく痛い。
前はこうなると自分の身体が可哀想で涙が出てきたのですが、昨日は怒りばかりこみ上げます。
何なの、この身体?
いい加減にしてよ、これじゃいくらやってもキリがないし、心底ウンザリする。
こんなんじゃ、今年の目標のペッタリ開脚やO脚矯正なんか出来そうにないし。
そこまで考えて、ハッとしました。
ペッタリ開脚、O脚矯正。
今年のやりたい事に、確かに書いた。今年の目標だ、が。
この目標設定がいけないんじゃないか・・・?
実践!アドラー心理学① 目標設定はするな?
ペッタリ開脚、O脚矯正。
これを達成するために、ケアを頑張ろうとしている自分。
それがままならず、身体に怒りを感じ始めている。
これって、達成感の罠じゃないか?
本来、身体ケアをすると、心も癒されるはずなのです。
そのフローが狂ってしまっているのは、身体を目標達成ツールとして使おうとしてるから。
目標を達成するために頑張ることは、達成するまでの日々を日陰に押しやることに他なりません。
しかも、目標は達成された瞬間に次の目標が出現するので、永遠に満たされる事がありません。
そもそも、なぜペッタリ開脚とO脚矯正したいのか?
それはダンスがうまくなりたいからです。
では、ペッタリ開脚が出来て、O脚が矯正されたら、ダンスはうまくなるでしょうか?
否。
それだけでダンスはうまくなりません。
もちろん、その柔軟性やスタイルの良さは、ダンススキルを上げる助けになります。
でも、それは目的じゃない。
だとしたら、そもそもこの目標設定は間違いです。
では、「ダンスがうまくなる」という目的のために、何を為すのか?
ここで、正しい目標設定が必要になるのです。
実践!アドラー心理学② 正しい目標設定とは?
ここで区別したいのが、「目標」と「目的」。
目的・・・・「何のために」の問いに答えるもので、その人特有の意思に基づく理念、価値観、信念・信条、夢などを語ったり、あることの意義として表現されたりすることがあります。
目標・・・・「どこに向かって」の問いで明確にされる、その人の行動の到達点。なお、到達点は、究極、長期、中期、短期、当面などの期間で区切って表されることもあります。また、目標値を単に「目標」(例えば、今期の売上目標)として語ることがあります。
アドラー心理学で混同しやすいポイント(1):目的と目標 - アドラー心理学による勇気づけ一筋30年 「勇気の伝道師」 ヒューマン・ギルド岩井俊憲の公式ブログ
アドラーの「目的論」は、「全ての人間は目的に向かって行動するもの」です。
今回の私の場合、身体に対して怒りが生まれています。
怒りによって、何がしたいのか。
●「やっても出来るようにならない」という不満をぶつけたい
●「やっぱり出来ない自分」という、自己肯定感の低い状態に合わせにいっている
(ただし、今回はPMS期のため、怒りが本来のメカニズムと違う発生をしてる可能性もあります)
正直、未熟で情けない。
でも、これは達成感の罠です。
本来の私の目的は、「ダンスがうまくなること」。
もっと突っ込むと「ダンスで自らだけでなく、見ているお客様の感情を解放したい」というのが真の目的と言えそうです。
そのための長期目標「ダンスがうまくなる≒ダンススキルを上げる」となり、
さらに中期目標として「ダンススキルを上げるために柔軟性と姿勢を改善したい」があり、
それを受けて短期目標として「ペッタリ開脚とO脚矯正」となるわけです。
ではなぜ「ペッタリ開脚とO脚矯正」を今年の目標にするのが間違いなのか?
理由のひとつは、時期を区切っているからです。
実践!アドラー心理学③ 時期を区切る目標は、こなせば叶うものに限る
よく目標設定は数値やリミットを盛り込みなさい、とよく言われます。
実際、それらがないと、実体化しにくいものです。
ただし。
見込みがない・わからない場合、数値目標やリミットを作っても無意味です。
あくまで「やれば出来そう」を実体化するのための数値目標・リミットなのです。
「やっても出来るかわからない」ことに対して設けても、ツラくなるだけ。
例えば私の場合「月にブログを20記事アップする」はやれば出来る目標ですが、
「今年中にペッタリ開脚・O脚矯正」は出来るかどうかわからない目標なのです。
(これを補う方法として「プロの指導を仰ぐ」というアプローチはありです。
ラ○ザップなどはいい例ですが、専門家なら「どのくらいの期間で、やれば出来るか」を見込む事ができます。
ただし、絶対に専門家の言うとおり100%実行することが可能である事が条件となります)
途方もない目標に向かって頑張るのは、つらくて苦しいばかり。
これではアドラーの言う「いま、ここ」を生きることはできません。
実践!アドラー心理学④ スキル習得は、目標にするな
さらに、達成感の罠にはまらない為に重要なこととして、「スキル習得を目標にしない」ということも重要です。
スキルというのは「目的」のために「あるといいな」的なものですが、それ自体では意味がないものがほとんどです。
今回の私の場合、「ペッタリ開脚できる」というのは一種のスキルです。
でも、それは「目的」のための「目標」ですらないのです。
開脚が出来ても、ダンスがうまくならない人はたくさんいるからです。
なぜ開脚したいのかというと、ダンスがうまくなるための柔軟性を向上させたいから。
したがって、正しい目標設定は「ペッタリ開脚に近づける柔軟性アップ」となります。
実践!アドラー心理学⑤ 今日、どこまで改善したか「だけ」に注目せよ!
それでも、やっぱりスキル習得は魅力的な目標です。
達成感だって、ちょっとは味わいたい。
だけど、目的に対してブレたくない。
これを一気に解消するのが「いま、ここ」を真剣に生きる事です。
今日は、こんな事ができるようになった。
今日は、これが改善した。
今日は、これが出来ていないことがわかった。
目的に対して行動していれば、どんなにわずかでも成長します。
どんなに些細でも、気付きがあります。
そのための、今日なのです。
昨日の私の場合。
身体がほぐれてバランスが変わったことで、腰痛がよりひどくなったのなら、ほぐれた箇所があることを良しとすればいい。
お尻が固まってることがわかったのだから、その発見は成長のもとになる。
何も出来ていないわけじゃなかったのです。
ただ、達成感の罠にはまり、それを見ないようにしていただけでした。
番外編 どんな目標を設定してもいい人もいる
今回のような目標設定の仕方は、特に私のように自己肯定感の低い人に有効です。
ただし、こんな風に注意しなくてもいいタイプの人も、もちろんいると思います。
それは、自己肯定感が高く、ポジティブな人。
ベースに自己肯定感があれば、過度に自分を精神的に追い込む事はありません。
さらに、ポジティブな人は「いま、ここ」を生きることが自然に出来ている場合が多い。
「出来なかったけど、まあそのうちなんとかなるし」
「まだまだだけど、ここだけは出来るようになってるし」
こういうことが自然に思えるなら、どんな目標を立てても、そんなにブレることはないでしょう。
アドラー心理学は、あらゆる自己啓発の基本になります。
そして、自己啓発が必要な人のほとんどは、自信がなくて自己肯定感が低いものです。
今、注目されてるアドラー。
私はとても必要な考え方ですが、それもまた人それぞれ。
自分に合うかどうかも含めて、触れてみてはいかがでしょうか?
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アドラー心理学にお詳しい方へ
今回、私なりの解釈でアドラー実践法を書きましたが、「そんなのアドラーじゃない」ということも多く含まれているかと思います。
が、そこはどうかご容赦下さい。
アドラー心理学を、日々学びながら身につけようとしている発展途上な私の記録として読んでいただければ幸いです。
「もうちょっと、こう解釈した方がいいよ」などのアドバイスは、大歓迎です!
ブログタイトルを変更します
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こんにちは、ミサキです。
突然ですが、ブログのタイトルを変更することにしました。
以前から同じ名前のブログがあることは何となく気にしていたのですが、人に説明するときに思いの外紛らわしいことに気づきました。
なぜなら、同名ブログもまた、はてなにあるから。
これは、先方にもそのうち迷惑をかけかねませんし、なにより不便。
というわけで、次回からブログタイトルをを変更します。
新しいタイトルは
「セルフリライアンス〜もっと自分を好きになる方法」
セルフリライアンス(self-reliance)とは、自己受容とか自己信頼という意味です。
自分を信じ、受け入れること。
それは、もっと自分を好きになると、強固なものになっていくはず。
そんな想いを込めて。
次回からの「セルフリライアンス〜もっとと自分を好きになる方法」も、よろしくお願いします!
自己否定のルーティン②〜解決のヒントは「アドラー心理学」
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こんにちは、ミサキです。
以前も記事にしましたが、また自己否定のルーティンが始まりました。
しかも前回と同じアクロバットの練習会で。
またかよ…。
misakinha.hatenablog.com
この記事は、経緯をきちんと追うことで、解決の糸口を探ろうという記録です。
今回の自己否定ルーティンの経緯
いつも通り、インストラクターに指示されたタスクこなしていきますが、何度練習しても上達感が得られず、どんどん苦しくなっていくばかりなのです。
良かったのは、他の参加者と比べることがなくなったこと。
でも、
永遠に出来ないんじゃないかっていう失望感と、
動かない身体を呪う気持ちと、
そもそも何やりたかったんだっけ?
という疑問が浮かび上がるばかり。
どんなにインストラクターに出来てると言われても、完成形から程遠い自分はできているとは到底思えず、その言葉が耳に入らないのです。
だんだんと、
何の練習がしたいのかもわからなくなり、
かといって習得したい技を練習するにはスキルが足りず、
与えられた練習は気のりせず。
停滞期の行き詰まり感で、ただ苦しいだけで練習が終わってしまいました。
身体を使うと、心が苦しい
アクロバットに限らず、身体を使い始めると、何やってても苦行感を感じやすくて、喜びがなくなっていくのです。
楽しくやりたいのに、楽しくできない。
出来てないことばかり意識がいってしまって、ツライ。
やりたいことのはずなのに、やればやるほどツラくなる。
身体を使うと、楽しめない。
どうも原因に、罪悪感があるようなのです。
出来るようになった喜びより、出来ない苦しみを感じることを、わざわざ選んでいるように思えます。
ありのままの自分を見せるのが怖い
なぜわざわざ苦しもうとするのか?
身体をを使って楽しむことを罰するために苦しんでいるように思えます。
では、何に対しての罰なのか?
私にどんな罪があるのか?
考えた末に出たのは、私自身の存在が罪だという感覚。
結局、原因は前回と同じなのです。
つまり、無価値観。
身体を使う時に顕著に現れるのは、多分。
身体を使うと自分のありのままをさらけ出さなければならないから。
価値のない私は、少しでも装って、価値があるように見せなければならない。
でも身体を使うと、装うことができない。
今できることしか見せられない。
ありのままを、さらけ出すしかない。
でも、ありのままの自分には価値がない。
だから、罰するしかない。
他人から笑われ、あるいは無視されて、深く致命的に傷ついてしまう前に、自ら傷つけてしまえばいい。
つまり、ただ嫌われるのが怖いだけなのです。
必要なのはグリーフワークなのか?
前回の記事で、この無価値観はアダルトチルドレン故の思考であり、それを癒すにはグリーフワークが必要なのか?ということを書きました。
昔大切にされなかった(ように感じた)、その悲しみを癒す、グリーフワーク。
方法は、幼少時の悲しい出来事を思い出し、その時に吐き出しきれなかった気持ちを徹底的に感じきるというものです。
悲しみや怒りを放出するこのワークは、分かち合ってくれる支援者や専門家と一緒にやらないと危険とされています。
このワークを行うタイミングが今も得られず、どうしようかと思っていたのですが。
私にとっては新しい別の方法のヒントに出会いました。
それが、アドラー心理学です。
ありのままのをさらけ出す「嫌われる勇気」
先のエントリーで、アドラー心理学の「嫌われる勇気」を読了したことを書きました。
misakinha.hatenablog.com
前回の記事に書ききれなかったことがまだたくさんあるのですが、その中のひとつに「承認欲求の否定」があります。
他者に嫌われたくないという発想は、他者の課題に介入することに繋がります。
なぜなら、他者が私を好むか嫌うかは、他者の課題であり、私の課題ではないからです。
また、すべての人に嫌われないということは不可能であり、そうあろうとすることで誰かに嘘をつくハメになる。
それは自分にも嘘をつくことになり、ますます苦しめることになります。
これを突き詰めると、承認欲求は否定されます。
他者に認められることへの欲求は、他者の課題への介入になりうるし、何より自分に嘘をつき続けることになるからです。
承認欲求を否定し、他者から嫌われる勇気を持つことこそ、自由に生きることに他ならないのです。
「普通であること」の勇気
さらに、続編「幸せになる勇気」では、「普通であること」の勇気という言葉が現れます。
- 作者: 岸見一郎,古賀史健
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承認欲求を満たすことで自らの価値観を形成した場合、この欲求には終わりがないため、永遠に満たされぬ生を送ることになる。
しかし、「わたし」の価値を自らが決定し、「人と違うこと」ではなく「わたしであること」に価値を置く。
すなわち、優劣性ではなく「普通であること」の勇気を持つことで、自由に生きることができるというのです。
ありのままの自分に価値がないと思う気持ちは、まさに優劣性に縛られていることに他なりません。
身体を使うこと以外では、この状態が出にくいのが、何よりの証拠。
なぜなら、ほとんどの場合「装う」ことが可能だからです。
見た目は、文字通り装うことで、人より美しく好感を持たれることができます。
(これは、身につければ本当に誰でも出来ます)
立ち居振る舞いも、訓練で洗練されます。
仕事も、自分が出来ることを理解していれば、要領よくこなせます。
でも、身体だけは、どうにもなりません。
いま、ここにある身体でしかありません。
どんなにダイエットでスタイルを整えても、子供の頃から踊ったり動いたりしていた人に、敵うわけがない。
そうわかっていても、なぜかやろうとしてしまうのです。
そもそも、アクロバットをアラフォーで始めようなんて、初めから無理がある。
それでもやりたいと思ったのです。
ダンスもそうですが、どんなに苦しくても、やめなかった。
それは、あるいはどこかで、この無価値観の克服を望む、ありのままの自分の欲求だったのかもしれません。
「褒められたい」は、競争を生む
「幸せになる勇気」では、教育者が褒めることもいけないというくだりが出てきます。
「ほめることは〝能力のある人が、能力のない人に下す評価〟であり、その目的は〝操作〟である」。
でも、ほめる教育は一定の効果があります。
それでもなお、ほめる危険性について、このように言及します。
「ほめられること」を目的とする人々が集まると、その共同体には「競争」が生まれます。(中略)こうして共同体は、褒賞をめざした競争原理に支配されていくことになります。
競争相手とは、すなわち「敵」です。
(中略)
「他者はすべて敵なのだ」「人々はわたしを陥れようとする機会を窺う、油断ならない存在なのだ」というライフスタイルを身につけていくでしょう。
そうなのだ。
褒められたいという気持ちは、すなわち、他の人よりも優れていたいという欲求に他ならない。
誰かが褒められれば羨ましいのは確かだ。
でも、これってすごく難しい。
褒められたい気持ちを手放すことはもちろん、単に講師が励ましてるだけの言葉すら、褒めてるように聞こえたら、どうしたらいいのだろう。
だからと言って、全ての指導者に「一切褒めるな」なんて言えない。
ならば、受け取る私から変わるしかない。
褒められたいと思うのを、やめること。
そんなことは、私の価値に関係ない。
それが、初めの一歩になるのだから。
どうやったら、実践できるのか?
褒められたいと思うことを、手放すこと。
理屈ではわかったけれど、実際にその場面に直面して、楽しめない自分が現れてしまったら、どうしたらいいのか?
これはもう、次にそうなった時に試すしかないのですが。
答えはひとつ。
セドナメソッドしかないと思っています。
セドナメソッドについて、詳しくはこちらに書きました。
misakinha.hatenablog.com
劣等感や罪悪感を感じている「私」は、罪悪感そのものではない。
ならば、その感情は手放せばいい。
次にこういうことが、いつ起こるかわかりませんが。
その時はまた、ご報告したいと思います!
ダンスするように生きる~アドラー心理学「嫌われる勇気」を読んで①
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こんにちは、ミサキです。
昨日、アドラー心理学を解説した「嫌われる勇気」を読了しました。
- 作者: 岸見一郎,古賀史健
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2013/12/13
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以前、「頑張る」は逃げ道かもしれない」という記事を書いたとき、コメントでおすすめされたのがきっかけで読み始めました。
コメントくださった「通りすがり」さん、ありがとうございます!
misakinha.hatenablog.com
misakinha.hatenablog.com
さて、それにしても大変な本に出会ってしまいました。
読み終わって思いました。
私が今までやろうとしてたあらゆるワークの根本はこれだったのか!!
何となくアドラーの名前はチラチラ目に入ってはいたのですが、そういうことでしたか・・・。
なぜ、今、アドラー心理学が人気なのか
書店では平積みのコーナーが設けられたり、今月からはなんと「嫌われる勇気」がドラマ化するそうです。
www.fujitv.co.jp
そもそもアドラーとはどんな人物なのか。
アルフレッド・アドラー(Alfred Adler、ドイツ語発音: [alfreːt aːdlɐ](アルフレート・アードラー)、1870年2月7日 - 1937年5月28日)は、オーストリア出身の精神科医、心理学者、社会理論家。ジークムント・フロイトおよびカール・グスタフ・ユングと並んで現代のパーソナリティ理論や心理療法を確立した1人。
アルフレッド・アドラー - Wikipedia
オーストリア出身の精神科医、心理学者。
フロイトとの共同研究者としての関係を経て、まったく新しい理論に基づく「個人心理学」を創始。
日本では、その創始者の名をとって「アドラー心理学」と呼ばれることが多い。
http://book.diamond.ne.jp/kirawareruyuki/aboutadler/
フロイトやユングの名前は、心理学門外漢の私でも知っていますが、アドラーについては名前を聞いた事がある程度。
彼らと同じ時代を生きた、一世紀以上前の人なのです。
「アドラー心理学」のポイントはいくつかありますが、今まさに「アドラーブーム」というくらい人気がある理由は、これだと思います。
「嫌われる勇気」からいくつか引用してみます。
「他者の期待など満たす必要は無い」
現代はSNSで誰もが発信できる時代。
「いいね!」や「ふぁぼ」(最近はらぶりつって言うんでしたっけ?)の数を気にするのは日常茶飯事。
私もまた、その一人です。
でも、そんなのはっきりいって「それがどうした」なのです。
人が気に入ろうが何だろうが、そんなの関係ない。
気に入るのはその人の勝手です。
気に入られるかどうかばかり気にするのは、他人の期待を満たす事に執着してるということ。
でも、人から認められたいと思う気持ちはどうすればいいのか?
そこで「課題の分離」という考え方が出てきます。
期待することは、他人の課題であって、私の課題ではない。
ならば、そこは明確に境界線を引こうというのです。
他者の課題には介入せず、自分の課題には誰一人介入させない。
バッサリ。
でも、確かにその通り。
私の何かを他者が気に入るかどうかは、私の問題ではないのです。
それなら、気にする事なんかない。
多分この発想が、時代にフィットしたのではないかと思います。
その事を言及する特番も、昨年放送されたようです。
「頑張るは逃げ道」はアドラー的思考だった!
「嫌われる勇気」を読むきっかけになったコメントを頂いた記事で、私はこんな事を書きました。
目標に届くための手段として「頑張る」を選んでいるとしたら、
「頑張っても永遠に目標に届かない」とわかった時点で、手段を変えるべきなのです。
本気で「頑張りたい」人は、頑張ることを目標達成ツールとは考えていません。
ただ、やりたいからやってるだけ。
さらに「達成感の罠」という記事では、こうも書きました。
やりたいことの通過点としての目標であること。
そして、「嫌われる勇気」ではこんな言葉が。
どこに到達したのかを線で見るのではなく、どう生きたのか、その刹那を見ていく
人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那なのです。
目標など、なくてもいいのです。「いま、ここ」を真剣に生きること、それ自体がダンスなのです。
偶然?それはわかりません。
でも、言ってることがほとんど同じ趣旨です。
「目的達成のために頑張る」という生き方は、達成にいたるまでの日々はいわば日陰の日々になります。
しかし、「やりたいからやる」「いま、ここを真剣に生きる」ということは、日陰になる瞬間はありません。
毎日を充実させ、幸せに生きるには、この発想が肝になります。
自分でも気づかないうちに、アドラー的思考をし始めていたのです。
これは多分、取り組んできたワークそれぞれがアドラーの影響を受けているからでしょう。
セドナメソッドも、アダルトチルドレンを克服するワークも、何らかのアドラー的影響がみられます。
気づかないうちに、アドラー心理学に触れ、取り込んできたのです。
misakinha.hatenablog.com
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何度も読み込むべき本
自己肯定感が極度に低い私にとって、「嫌われる勇気」のクライマックスに書かれる「自己受容」のあたりは、もう少し読み込みが必要だなと思いました。
でも、この部分の考察は、また改めて。
自分の中でもう少しまとまってから、改めて解釈を記事にしていきたいと思います。
あと個人的に気になっているのは、「ダンスをするように生きる」という表現。
村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」や「神の子どもたちはみな踊る」のことを思い出しました。
読み直してみようと思います。
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いずれにせよ、アドラー心理学を身につけるには、今まで生きてきた半分の時間が必要らしいので、私の場合は60歳までかかります(笑)
腰を据えて、しっかり取り組んでいくつもりです!
続編「幸せになる勇気」も読まなくては!
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