自己否定のルーティン②〜解決のヒントは「アドラー心理学」
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こんにちは、ミサキです。
以前も記事にしましたが、また自己否定のルーティンが始まりました。
しかも前回と同じアクロバットの練習会で。
またかよ…。
misakinha.hatenablog.com
この記事は、経緯をきちんと追うことで、解決の糸口を探ろうという記録です。
今回の自己否定ルーティンの経緯
いつも通り、インストラクターに指示されたタスクこなしていきますが、何度練習しても上達感が得られず、どんどん苦しくなっていくばかりなのです。
良かったのは、他の参加者と比べることがなくなったこと。
でも、
永遠に出来ないんじゃないかっていう失望感と、
動かない身体を呪う気持ちと、
そもそも何やりたかったんだっけ?
という疑問が浮かび上がるばかり。
どんなにインストラクターに出来てると言われても、完成形から程遠い自分はできているとは到底思えず、その言葉が耳に入らないのです。
だんだんと、
何の練習がしたいのかもわからなくなり、
かといって習得したい技を練習するにはスキルが足りず、
与えられた練習は気のりせず。
停滞期の行き詰まり感で、ただ苦しいだけで練習が終わってしまいました。
身体を使うと、心が苦しい
アクロバットに限らず、身体を使い始めると、何やってても苦行感を感じやすくて、喜びがなくなっていくのです。
楽しくやりたいのに、楽しくできない。
出来てないことばかり意識がいってしまって、ツライ。
やりたいことのはずなのに、やればやるほどツラくなる。
身体を使うと、楽しめない。
どうも原因に、罪悪感があるようなのです。
出来るようになった喜びより、出来ない苦しみを感じることを、わざわざ選んでいるように思えます。
ありのままの自分を見せるのが怖い
なぜわざわざ苦しもうとするのか?
身体をを使って楽しむことを罰するために苦しんでいるように思えます。
では、何に対しての罰なのか?
私にどんな罪があるのか?
考えた末に出たのは、私自身の存在が罪だという感覚。
結局、原因は前回と同じなのです。
つまり、無価値観。
身体を使う時に顕著に現れるのは、多分。
身体を使うと自分のありのままをさらけ出さなければならないから。
価値のない私は、少しでも装って、価値があるように見せなければならない。
でも身体を使うと、装うことができない。
今できることしか見せられない。
ありのままを、さらけ出すしかない。
でも、ありのままの自分には価値がない。
だから、罰するしかない。
他人から笑われ、あるいは無視されて、深く致命的に傷ついてしまう前に、自ら傷つけてしまえばいい。
つまり、ただ嫌われるのが怖いだけなのです。
必要なのはグリーフワークなのか?
前回の記事で、この無価値観はアダルトチルドレン故の思考であり、それを癒すにはグリーフワークが必要なのか?ということを書きました。
昔大切にされなかった(ように感じた)、その悲しみを癒す、グリーフワーク。
方法は、幼少時の悲しい出来事を思い出し、その時に吐き出しきれなかった気持ちを徹底的に感じきるというものです。
悲しみや怒りを放出するこのワークは、分かち合ってくれる支援者や専門家と一緒にやらないと危険とされています。
このワークを行うタイミングが今も得られず、どうしようかと思っていたのですが。
私にとっては新しい別の方法のヒントに出会いました。
それが、アドラー心理学です。
ありのままのをさらけ出す「嫌われる勇気」
先のエントリーで、アドラー心理学の「嫌われる勇気」を読了したことを書きました。
misakinha.hatenablog.com
前回の記事に書ききれなかったことがまだたくさんあるのですが、その中のひとつに「承認欲求の否定」があります。
他者に嫌われたくないという発想は、他者の課題に介入することに繋がります。
なぜなら、他者が私を好むか嫌うかは、他者の課題であり、私の課題ではないからです。
また、すべての人に嫌われないということは不可能であり、そうあろうとすることで誰かに嘘をつくハメになる。
それは自分にも嘘をつくことになり、ますます苦しめることになります。
これを突き詰めると、承認欲求は否定されます。
他者に認められることへの欲求は、他者の課題への介入になりうるし、何より自分に嘘をつき続けることになるからです。
承認欲求を否定し、他者から嫌われる勇気を持つことこそ、自由に生きることに他ならないのです。
「普通であること」の勇気
さらに、続編「幸せになる勇気」では、「普通であること」の勇気という言葉が現れます。
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承認欲求を満たすことで自らの価値観を形成した場合、この欲求には終わりがないため、永遠に満たされぬ生を送ることになる。
しかし、「わたし」の価値を自らが決定し、「人と違うこと」ではなく「わたしであること」に価値を置く。
すなわち、優劣性ではなく「普通であること」の勇気を持つことで、自由に生きることができるというのです。
ありのままの自分に価値がないと思う気持ちは、まさに優劣性に縛られていることに他なりません。
身体を使うこと以外では、この状態が出にくいのが、何よりの証拠。
なぜなら、ほとんどの場合「装う」ことが可能だからです。
見た目は、文字通り装うことで、人より美しく好感を持たれることができます。
(これは、身につければ本当に誰でも出来ます)
立ち居振る舞いも、訓練で洗練されます。
仕事も、自分が出来ることを理解していれば、要領よくこなせます。
でも、身体だけは、どうにもなりません。
いま、ここにある身体でしかありません。
どんなにダイエットでスタイルを整えても、子供の頃から踊ったり動いたりしていた人に、敵うわけがない。
そうわかっていても、なぜかやろうとしてしまうのです。
そもそも、アクロバットをアラフォーで始めようなんて、初めから無理がある。
それでもやりたいと思ったのです。
ダンスもそうですが、どんなに苦しくても、やめなかった。
それは、あるいはどこかで、この無価値観の克服を望む、ありのままの自分の欲求だったのかもしれません。
「褒められたい」は、競争を生む
「幸せになる勇気」では、教育者が褒めることもいけないというくだりが出てきます。
「ほめることは〝能力のある人が、能力のない人に下す評価〟であり、その目的は〝操作〟である」。
でも、ほめる教育は一定の効果があります。
それでもなお、ほめる危険性について、このように言及します。
「ほめられること」を目的とする人々が集まると、その共同体には「競争」が生まれます。(中略)こうして共同体は、褒賞をめざした競争原理に支配されていくことになります。
競争相手とは、すなわち「敵」です。
(中略)
「他者はすべて敵なのだ」「人々はわたしを陥れようとする機会を窺う、油断ならない存在なのだ」というライフスタイルを身につけていくでしょう。
そうなのだ。
褒められたいという気持ちは、すなわち、他の人よりも優れていたいという欲求に他ならない。
誰かが褒められれば羨ましいのは確かだ。
でも、これってすごく難しい。
褒められたい気持ちを手放すことはもちろん、単に講師が励ましてるだけの言葉すら、褒めてるように聞こえたら、どうしたらいいのだろう。
だからと言って、全ての指導者に「一切褒めるな」なんて言えない。
ならば、受け取る私から変わるしかない。
褒められたいと思うのを、やめること。
そんなことは、私の価値に関係ない。
それが、初めの一歩になるのだから。
どうやったら、実践できるのか?
褒められたいと思うことを、手放すこと。
理屈ではわかったけれど、実際にその場面に直面して、楽しめない自分が現れてしまったら、どうしたらいいのか?
これはもう、次にそうなった時に試すしかないのですが。
答えはひとつ。
セドナメソッドしかないと思っています。
セドナメソッドについて、詳しくはこちらに書きました。
misakinha.hatenablog.com
劣等感や罪悪感を感じている「私」は、罪悪感そのものではない。
ならば、その感情は手放せばいい。
次にこういうことが、いつ起こるかわかりませんが。
その時はまた、ご報告したいと思います!