読書感想文の思い出〜誰かに認められ、受け入れられるということ
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こんにちは、自己受容エバンジェリストのミサキです。
はてなブログ仲間のcotteさんが、少し前にこんな記事を書いていました。
卒業文集に、レッド・ツェッペリンの「天国への階段」の訳詞を載せた。
それを見て、そっと肯定してくれた先生がいた。
そんなcotteさんのブログを読んで、私も学生時代の出来事を思い出しました。
読書感想文にまつわる、こんな話
私が通う中学は課題図書というものがあり、そのリストの中から本を選び、感想文を提出しなければなりませんでした。
私が選んだのは、夏目漱石の「こころ」。
まだ世間のことなんか何もわからず、ちゃんとした恋愛もまだだった私には、「こころ」の不条理さを消化できずにいました。
(読んでない方、ごめんなさい。
ここからはあらすじに触れながらのエピソードになります)
誰も悪くないのに、どうして先生は自死を選ばなければなからなかったのか?
Kはホントのところ、どうして死んだのか?
お嬢さんは、それで幸せになれるのか?
今ならもう少し深い考察も出来ますが、思春期の私にはこの位までが限界でした。
自分がもしお嬢さんだったら、こんな風に何もわからないまま先生に置いていかれるのは嫌だ。
でも、先生の気持ちもわからないでもない。
どんなに考えても、グルグルするばかりで答えが出ません。
感想文を書くにしても、結論らしいものが導き出せず、かなり悩みました。
悩んだ末、思ってることをそのまま書きました。
誰も悪くないのに、どうしてこうなってしまうのか。
他に選択肢なんかないように見えるし、どうしようもないことなのか。
どうしてこんな不条理な結果になってしまうのか。
私にはわからない。
自分としては、やっつけに近い文章でした。
仮説も結論も出せず、迷いをそのままぶつけただけ。
もう提出さえすればいいや。
そう思って、それを書いたことすら忘れていました。
*
そして年度末。
その年優秀だった感想文は、年度末の文集に纏められます。
私は編集委員会の役員をやっており、ページ毎の台割りなどのために、印刷会社に出す前の原稿をチェックしていました。
そこで、別の生徒が書いた「こころ」の感想文を読んで、衝撃を受けたのです。
そこには、こうありました。
先生は、全てをお嬢さんに話すべきだった。
そうすれば、隠し事をしたまま自殺することもなかったし、お嬢さんだってその方がいいはずだ。
これが、今年度の優秀感想文ですか…。
確かに書物からどんな感想を抱いても、それは人それぞれで、良いも悪いもないのですが。
私が「こころ」で抱いた感想を一蹴するようなその結論と、それが学校という権威から目されたということに、少なからずショックを受けてしまったのです。
なんというか、本を読んだ時に感じた葛藤を軽んじられたような。
何となくモヤっとした気持ちを誰かにわかって欲しい。
そう思って、編集委員会の顧問だった少し年配の国語教諭に、私はこう言いました。
「こころの感想も、文集に載ってるんですね」
国語教諭なら、選考の場には居たはずです。
臆病な私は、それだけいうのが精一杯でした。
すると、意外な答えが。
「あら、あなたのも載ってなかった?推薦したはずなんだけど」
*
その女性の国語教諭は、少し変わり者として有名でした。
学校組織の中でも飄々として、厳しいけど意味がない校則なんか全然気にせず、そっとスルーしてくれるような人でした。
そんな先生だからでしょう、おそらく選考会議において発言力はあまりなく、他の先生の推す感想文が優先されたのは明らかでした。
この先生は、私の感想文をちゃんと読んでくれていた。
私が感じた葛藤を、きちんと受けとめてくれていた。
私は、自分の感受性を、認めてもらえたような気がしたのです。
拙い文でも、そう感じたことが大事なのだと、言われたような気がしたのです。
思わぬ言葉が、誰かの勇気づけになるということ
私は自分の感受性について、自信を失ったり、疑ったりすることはほとんどありません。
時に強すぎる感受性を持て余し、苦しむようなことはありますが、それでもこの繊細さがなければいいとは思いません。
それは多分、あの時の経験が活きているから。
あの時先生が見ていてくれた、そのことが私の感性や文章を書くということへの自信に繋がったのだと思います。
先生は、私を褒めたのではありません。
「私は、良いと思ったんだけど」という先生の言葉は、
「見ていてくれた」
「わかってくれてた」
という気持ちにさせてくれました。
アドラー的に言えば「勇気づけ」です。
このことは、多分もう先生も覚えていないでしょう。
でも、それでいいのだと思うのです。
*
褒めること。
賞与や報酬を与えること。
人を伸ばす方法として語られるのは、たいてい承認欲求を利用した「ご褒美」の与え方。
でも、「本当の自信」は、それでは得られない。
私はそう思っています。
結果を褒めるのではなく、その人の在り様を認めること。
仕事の取り組み方、感想文を書くまでに感じたこと、悩んでること。
それを否定も肯定もせず、それでいいと認めてもらうこと。
それが、一番の勇気になる。
それが、自信になる。
そう思うからこそ、人に対して「勇気づけ」が出来る私でいたいのです。
そのままでいい。
このままがいい。
頑張ってもいい。
頑張らなくてもいい。
誰に対してもそんな風に言える私になりたいと、今はそう思うのです。