セルフリライアンス〜もっと自分を好きになる方法

自己受容ナビゲーター。元アパレル勤務のアラフォーこじらせ女子・ミサキの、ダイエット、ファッション、メイク、ボディコンディショニングなどの体験記。コンプレックスを克服するためのライフハックなど。

ポスト「こじらせ女子」のこれから〜雨宮まみさんに寄せて②


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雨宮まみさんが亡くなった悲しみが消えない。

雨宮さんの痕跡を探したくて、彼女の死を悼むブログやツイートを探して廻る。

数々の記事の中、どうしても目につく「自殺か?」というニュース記事。

真相はわからない。

でも日々のツイートを追っていた私には、どうしてもそうとは思えなかった。

比較的近しかったと思われる人たちのツイートを見ても、やはりそうとは思えない。

自殺だとほのめかす記事が必ず引っ張り出すのは、雨宮さんのこの文章だ。

死にたくなる夜というのが、やってくる。 たいていはそのたびに、薬を飲んで、寝ようとして、 眠れなかったり、でもほかのことでは気を散らすことができなかったり、 朝日がのぼるまでの時間を、苦しいまま過ごすことになる。

「死んでもいいですか?」と、誰かに訊きたくなる。

否定してほしいわけじゃない。死んじゃダメだと言われたいわけじゃない。心配なんか、かけたくない。 でも、その言葉は甘えだと、よくわかっている。

死んだら、みんな、「わたしたちと一緒にいる時間は楽しくなかったの?」と思うだろう。 「笑っていたけど、あれは嘘だったの?」「苦しんでいることに気づいてあげられなかったの?」 そんなことない。全部本当で、楽しくて、愛されていることも知っていて、ただ、わたしにはわたしの、どうしようもない傷がある、というだけのことなんだ。

時間が経てば、こんな傷、何も感じなくなるときが来る。 経験でわかっていても、人の心は、なぜこんなふうに揺れるようにできているんだろう。

この文章が書かれたのは6月。

でも、これだけを元に自殺だというのなら、私がいま死んでも、自殺だと言われるだろう。

落ち込んだり、暗い気持ちになってネットに書き散らした文章なんか、いくらでもある。

でも、私は生きてる。

今のところ死ぬつもりもない。

「死にたい」と言う時は、言った対象に対しての甘えだ。

もちろん、自殺なのかどうかも本当のところはわからない。

でも、それを本人が主張する何かが見つかった訳でもないのに、周りがとやかく言う権利などない。

雨宮さんが述べているように「わたしにはわたしの、どうしようもない傷がある」ように、人には他人にうかがい知れない部分があるのだから。

ただ、前回も引用した、最後に更新された文章。 あれはいけない。

大和書房・WEB連載〜40歳がくる!MOB 雨宮 まみ vol13

恋愛は自分を映す鏡だとか言うけれど、今ほどそのことを実感しているときはない。「将来をどう考えているか」なんて、質問のようで質問ではない。「私と同じものを求めていないなら去って」と言っているのと同じだ。私はそういう女なのだ。そして、同じものを求めていると言われても、同じように考えていると言われても、自分のほうが気まぐれに他の人に心を移すこともあった。つまり、そういう女でもあったのだ。誠実でなく、矛盾していて、誘惑に弱い。人に何かを求める資格なんか、ない。

(中略)

甘えるのが下手で、本音を言うのが下手で、めんどくさい女だと思われるのが怖くて不満を言えない。言うときには不満がものすごく溜まっているから、すごく嫌な言い方になる。かわいげなんかどこにもない。

「人に何かを求める資格なんか、ない」なんて、私がよく思うセリフそのままだ。 矛盾した言動を取ることなんて山ほどあるし、そんな自分を許せなくなることもしょっ中ある。

不満がたまった末に可愛げのない言い方をするところもそっくりだ。

だけど。

なぜ雨宮さんには、それでも許してくれる他人が現れなかったのか?

不幸を厭いながら、なぜか不幸に引き寄せられるような生き方をして、そこから抜け出したいと必死にもがいていたのがわかるから、ただ「どうして?」と思ってしまう。

この不条理感に、一つの答えを示してくれたのが、このブログ。

さようなら – sociologbook

間に合わなかった一言があって、でも、間に合った一言もたくさんあると信じたいです。ちょうどいいタイミングでかけられるちょうどいい一言が、実は、自分たちも気づいてないだけで、この世界にはあふれてるんじゃないでしょうか。それが間に合ってくれたおかげで、私たちはその存在に気づかないだけなんです。ほんとうはそういう一言がたくさんあって、それで私たちは何とかやっていけているのだろうと思います。

自分たちでも気づかない、そういうことがたくさんあって、この世界が成り立っている。そう信じたい。

でもたまに、ほんとうに間に合わないことがあります。

「間に合ったこと」と「間に合わなかったこと」は本当に紙一重で、その微妙なバランスで生きているのかもしれない。

そして「間に合ったこと」に気づくには、とても注意深く、耳を澄ませていないとわからないのではないか?

雨宮さんは、きっと忙しすぎた。

全力疾走のように生きてきて、だからこそ「間に合ったこと」に気づけなかったのかもしれない。

それはまさに「間に合わなかった事故」としか言いようがない。

雨宮さんを失ってしまったから、彼女が書いたはずだった続きはわからない。 でも、彼女が書けなかった「40代その後」は、私達が綴っていくしかない。

「間に合ったこと」に注意深く大切にしながら、「間に合わなかったこと」を出来るだけ減らして生きたい。

うまく纏まらないけれど、生きていくって、そういうことなのだ。多分。

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